僕は学生の時に、日本がバブル経済に突入した転換点を肌で感じる経験をした。
築35年、木造、風呂なし、トイレ共同
僕が早稲田大学に入学したのは1983年だった。
鹿児島の両親に学費は出してもらっていたが、生活はアルバイトでなんとかしなければならず、とても貧乏だった。
住んだのは、東京・荻窪の築35年、木造のおんぼろ下宿である。
早稲田の学生課に張り出されている入居者募集物件の中で、最も家賃が安い部屋を迷いなく選んだ。
6畳1間でトイレ、台所共同、敷金礼金なし、家賃は月1万4500円、だった。
友達の部屋も似たり寄ったり
でも、ここが初めての自分の城だ、と思うとうれしくて仕方なかった。とにかく希望に燃えていたのである。
大学で友達ができはじめると、大抵の人は僕よりちょっとましな程度のこぢんまりした下宿屋やアパートに住んでいた。
自分の部屋のボロさ、狭さなんて、ぜーんぜん気にならなかったのだ。
このボロ下宿には、大学やバイトで知り合った女の子たちが結構な数泊まりに来た。
シャワーはないので、一緒に近くの銭湯にいったりして、これがまた楽しかった。
迫り来るバブルの足音
節目が変わったのは、僕が大学3年の時である。
世の中はバブル景気に浮かれ始めていた。
僕の下宿のようなボロ屋に住む学生はガクンと減った。
シャワーが着いていない部屋はいくら安くても入居者が集まらなくなった。
僕の下宿は10部屋あったが、入居したときは全員が日本人の大学生だった。
ところが、大学3年生の時には、半分以上が外国人となってしまった。
バングラディッシュ人がほとんどだったと思う。
共同の台所には、見たこともない様々な香辛料や調味料が並びだし、目にツーンと来る不思議なオリエンタルなにおいが下宿中を包んだ。
大学3年生の時、僕は共立女子大の1年生の知美ちゃんといい仲になった。
知美ちゃんはキスさえ全くなれておらず、緊張してふるえていたので多分処女だったと思う。
デートして、キスをして、おっぱいを触って、というところまではとんとん拍子に話が進んだ。
その先もいやが上にも期待が盛り上がろうというものである。
いざ、その時が
新宿で一緒に飲んだ日、その時がやってきた。
口に出して言ったわけではないが、知美ちゃんが、今日はもう一歩進もうと思っているのがわかった。
僕もそうしたい。
僕は提案した。
「ホテルに行こう」。
すると、知美ちゃんは言った。
「初めてがラブホテルは嫌。あなたの部屋に行きたい」。
僕は何かイヤーな予感がした。
「でも、ボロだし散らかっているから」。
「大丈夫よ。気にしないから」。
知美ちゃんはほほ笑んだ。
かわいいほほ笑みに負けて、僕は知美ちゃんを荻窪の下宿へと連れて行った。
どんどん顔が曇る知美ちゃん
僕の下宿に到着して、今にも崩れそうで座敷童が10匹くらい住んでいそうな木造の建物を見て、知美ちゃんの顔が曇った。
下宿に同居するバングラディッシュ人が使う謎の香辛料の強烈な香りに、さらに知美ちゃんの顔に影が差した。
部屋に入り、擦り切れた畳の上に敷かれた万年床、テーブルの上に並ぶ食べかけの食品や飲みかけの酒瓶、部屋の隅にある洗濯物の山を見て、知美ちゃんはあんぐりと口を開けた。
パンツを巡る攻防
一応、僕のにおいの染みついた万年床に二人で寝たが、知美ちゃんは上半身は裸になっても下半身は守り抜いた。
僕は2、3度パンツを脱がそうと試みたが、抵抗されるので辞めてしまい、酔っていたこともあってそのまま眠ってしまった。
その時は6月末で、湿気が多くムシムシする季節だった。
知美ちゃんにすれば、初体験の場としては最悪の環境であっただろう。
その後1、2回デートはしたが、なんとなく電話もあまり来なくなり(携帯のない時代である)。
自然消滅する形で別れてしまった。
後輩のワンルームマンションで
それから半年ほどして、知美ちゃんが僕のサークルの同じ1年生の小林君とつき合っている、という噂を耳にした。
小林君の部屋は新築のきれいなワンルームマンションで、当然シャワー・風呂付きであった。
僕は小林君に負けたとは思わない。
部屋に負けたのだ。
武士の情けでそういうことにしておいて欲しい。
その後、やはり2人ほど、部屋に連れ込んだはいいが未遂に終わる、という事件があった。
僕の下宿は時代の波に完全に取り残されていたのである。